
社名変更の新聞広告
平成2年(1990)10月1日、神奈川電気株式会社から株式会社カナデンに社名変更した際の日本経済新聞全面広告はデザインの斬新さとともに話題を呼んだ。週刊ダイヤモンド(11月10日号)にも特集記事としてのパブリシティを展開。飛躍への幕開けとなった。
神奈川電燈の支配人、松田福一郎が旧会社の商事部門の一部を率いて独立し、東京市芝区中門前2丁目1番地(現港区芝大門2丁目)に、神奈川電気合資会社を設立。
当時の様子は、第2代社長 高森五郎(大正4(1915)年12月入社)によれば次のとおりであった。
「土地、建物とも質屋からの借り物であった。質屋であった関係で、四囲全部土蔵で、中庭あり、日本間の住居を改造して事務所としていた。
明治天皇崩御、大正天皇即位
ここに大正初期の横浜青木地区の絵図がある。中央最上部に洲崎大社という字が読み取れるが、正しくは洲崎大神という名で、今も近隣の人々から篤い信仰を集めている。源頼朝が幕府を開く1年前、建久2(1191)年に千葉県一宮の安房神社の霊を移して建立した。洲崎大社の前から掘割に向かって伸びる道を下方に追っていくと掘割に面した一角に「カナ川電灯」の看板を掲げた建物を見て取ることができる。さらに目を凝らせば壁には「電灯」の文字も見られる。
大正11年夏、三菱電機株式会社が新製品として扇風機を開発し、三菱商事株式会社経由で販売を開始したところ、爆発的な人気を呼んだ。当社では、東京市内の電気商に対してはもとより、電灯会社・電鉄会社へ大量納入し、販売を依頼した。納入先として、東京では、東京電燈株式会社(現 東京電力)、京浜電鉄株式会社(現 京浜急行電鉄)、京王電軌株式会社、京成電軌株式会社、王子電軌株式会社、地方では長野電鉄株式会社、甲府電力株式会社が挙げられる。
生産台数は年間約3万台であり、当社の取扱量はその10%、3,000台であった。その後も、この製品はわが国の代表的な扇風機として、国内はもちろん、東南アジア、台湾へも大量に輸出された。
関東大震災
当時、当社にて常時在庫した主だった商品の内訳は次のとおりである。
5月、ケーブルヘッド、ジョイントボックス製造のため、埼玉・川口に鋳物工場を新設した。それまでは三重県桑名市の中央度量衡株式会社に下請けを依頼し、芝・浜松町の華陽工業株式会社にて機械加工・組立を行い納入していたが、戦争が拡大するにつれ、資材の輸送が困難になったことから、石川鋳工所(川口市飯塚1丁目1番11号)を買収し、経営者の石川竹盛氏ほか2名を当社に迎えた。初代工場長代理には月橋精三郎が就任し、工員8名で発足した。
川口工場は、主に海軍関連の業務を行い、19年2月には海軍監督工場に指定された。取引先の内訳は、横須賀(横須賀工廠建築部、第一海軍燃料廠)、呉(呉工廠、広工廠建築部)、佐世保(佐世保工廠経理部、軍需部、建築部)のほか、豊川海軍工廠、光海軍工廠、第一・第二海軍火薬廠、第二・第三海軍燃料廠である。
機械加工については、舟越鉄工所に下請けを依頼したが、一貫作業の必要に迫られ、機械工場新設を計画した。しかし、なかなか許可が下りず、ようやく18年5月、条件付きで許可された。
時あたかも日本軍がガダルカナルで撤退を余儀なくされ、スターリングラードの攻防戦においてドイツ軍がソ連軍に大敗北を喫した頃であった。日本はすでに資材不足が深刻化しており、許可は下りたものの肝心の工場建設は進まず、半年後の11月、ようやく竣工の運びとなった。
なお、この時期から三菱電機世田谷製作所の注文により救命袋の留め金具の製造も手がけるようになった。
NHKテレビ東京地区が本放送を開始。
日本テレビが本放送を開始。
三菱電機が無線機製作所を設立。
→『家庭電化元年』と呼ばれる
NHK大阪・名古屋テレビ開局。
三菱電機が静岡工場開設。
三菱電機ルームエアコン『ウインデヤ』発売。
ラジオ東京、テレビ開局。
下期から『神武景気』始まる。
家庭電化時代に突入し、テレビ、洗濯機、冷蔵庫が家電”三種の神器”と呼ばれる。
扇風機需要きわめて旺盛。二槽式電気洗濯機登場
テレビ受信契約者数1,000万人を突破、普及率48.5%
創立56周年にあたるこの年の5月15日、東証二部に上場され、取引開始となる。
当日は始値235円、売気配、終値207円であった。
創立60周年を記念して全社員から募集。高森芳郎総務部長(当時)の詞が選ばれ、選考委員の池内友次郎東京芸大教授が作曲した。
3C時代(カラーテレビ、クーラー、カー)に突入。
ニクソンショックによる円高と過剰設備の影響で、好調だった家電の売り上げにも次第に陰りが見え始める。
三菱電機は第二次家電ブームの到来を機に、昭和45年10月から翌46年9月までの間に全国各地に地区販売会社を次々と設立。特定市場、百貨店専門、量販専門の販社を発足させる。
こうした三菱電機の動きに即応して、当社も家電部門の分離に踏み切り、300名余りを新設会社に移籍。
米国、ドル防衛措置発表(ニクソンショック)
空前の猛暑によりルームエアコン記録的な需要。
産業用ロボット脚光を浴びる
9月1日、東京証券取引所の指定を受け、宿願の一部上場が決定。昭和38年(1963)5月15日に二部上場して以来26年、一部上場企業を目指し全社を挙げて努力を重ねてきたが、業績の向上とともに資本金の充実や株主の増加、安定配当と株式の売買出来高の増大、さらに事業所の拡大などすべての条件が整った結果、三菱電機代理店のトップを切っての一部上場となった。
上場当日の始値は1,200円、終値は1,150円であった。
また、上場記念配当金として2円の増配を実施した。
10年程前から社名変更を望む声は上がっていた。これは「神奈川」という特定地域のイメージがあることや、社名変更による採用活動への効果等が期待された。また、当時は企業のCI運動が盛んで個性をアピールした社名に変更する企業が増えていた時代背景と、さらに当社が東証一部上場への指定替えを果たし社会的知名度が高まっており、21世紀に望み新たな飛躍と信頼度のより高い企業イメージの確立を目指して、10月1日、社名を「株式会社カナデン」に変更し、新たなスタートを切った。
平成2年(1990)10月1日、神奈川電気株式会社から株式会社カナデンに社名変更した際の日本経済新聞全面広告はデザインの斬新さとともに話題を呼んだ。週刊ダイヤモンド(11月10日号)にも特集記事としてのパブリシティを展開。飛躍への幕開けとなった。
昭和42年に全社員公募により誕生した社歌は、この年、「新生カナデン」の誕生を記念して公募された。
小田桐康夫電子営業本部副本部長(当時)作詞、作曲家の山中紀晶による新しい社歌は、親しみやすいメロディが好評で今も歌い継がれている。